【雨 雑学 ②】「雨ニモマケズ」の意味・背景を完全解説!

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日常の会話で使える雑学。6月のテーマは「雨」。前回は、雨が出てくる童謡の「歌詞」について見てきました。意外と知らなかった歌詞の意味、隠された背景!まだご覧になっていないかたは、どうぞご覧ください。さて、2週目は…???

雨ニモマケズ

イヌえもん
イヌえもん

さぁ、パート2いきましょう!
今回6月のテーマは「雨」でお伝えしています。パート1では、雨に関する童謡について見てきました。パート2でも、詩について、まあね。バート1では、雨についてのリリックの部分。詩と言ってもリリックの部分見てきましたが、今度はポエムの部分で行きたいなと。

ネコ美
ネコ美

どんなんだろう。ポエムに曲がついたらリリックになるのかなぁ?🤔

イヌえもん
イヌえもん

なるほど。まぁ…

ネコ美
ネコ美

まぁ、純粋にポエムですね。パート2は。

イヌえもん
イヌえもん

これに関しては、「歌」、としては知られていない、ポエムで行こうかなとは思います。

イヌ:雨がつく有名な詩をご存知ですか。

ネコ:詩??

イヌ:ポエムの方の詩。歌ではなく。

ネコ:聴いたらわかるんだろうな。

イヌ:今回、私がこの、雨について何かどんな話しようかなと思って色々探していたところ、「あ、この詩ちょっと調べて伝えてみたい」って思いました。宮沢賢治『雨ニモマケズ』。

ネコ:ああ~もぅ、絶対知ってるやつじゃん、それ!思いつかなかったけど(笑)。

イヌ:これについて、詳しいですか?

ネコ:雨にも負けず、風にも負けず、夏の…なんとかの暑さにも負けず、みたいな。

イヌ:まあ…だいたいそうですよね。

ネコ:丈夫な体を持ち。

イヌ:そうそうそうそう!

ネコ:1日に玄米、何か、、、…すごい、かいつまんで、わかります。

イヌ:話し甲斐がありますね😏

ネコ:は~い!楽しみ。

イヌ:この「雨ニモマケズ」は、宮沢賢治の生前に発表された詩ではなくて、亡くなった後に、手帳に書いてあったメモから出てきたものです。

ネコ:えぇ!?私、自分が亡くなったあとに、死んだ後に手帳を公開されたら、ちょっと辛い🤣

イヌ:それだけの価値のある手帳なんですよ。

ネコ:ああ、なるほどね(笑)。

イヌ:1931年昭和6年の秋に使用していたもの。その手帳の詩の冒頭部分には11.3と書いてあったので、11月3日に執筆されたと推定されています。これは亡くなる2年前だそうです。ただ、当時もうすでに病に伏していたので遺書を残して死を覚悟していたんじゃないかと言われるような位置づけになっています。

ネコ:ふ~ん

イヌ:でもね、ネコ美さん言ったように、宮沢賢治自身は、生前はほぼ無名の存在だったので、まさかね。この詩が、自分がね、死んでしまった後にこんなに有名になるとは想像もしなかったでしょうね。これ『雨ニモマケズ』って、どういうことを言ってると思います?

ネコ:私にその詩、一時すごいちゃんと覚えてたんですよ。完璧に。それで言うと、純粋に、あれじゃない?「どんな天気のときでも、元気で頑張れる元気な体でていたかったです」みたいな話じゃなかったでしたっけ?

イヌ:あー、はいはいはいはい。じゃぁ、語っていきますよ。

ネコ:はい、お願いします。

「そういうひと」って、誰??

イヌ:実はこの『雨ニモマケズ』詩には、モデルになっている人がいます。

ネコ:え、本人じゃないの?「そういうものに私はなりたい」でしょ?あ!そっか!なるほど。…誰ですか?

イヌ:その人の名前は、

ネコ:はい

イヌ:斎藤宗次郎。

ネコ:だれ~?😅

イヌ:まぁ、誰って感じだよね。

ネコ:ちょっと不勉強でした…有名人ですか?

イヌ:この斎藤宗次郎という人物は、当時珍しいクリスチャン。小学校の先生してたんですって。

ネコ:へー

イヌ:ただ、当時はクリスチャンなんて珍しいので、迫害をされて辞めさせられていますから、その後とっても貧しいく生活を送っています。野原の松の林の陰の小さな茅葺き小屋に住んでいました。クリスチャンは迫害を受けて貧しかった。食べ物といえば、一日に玄米四合と味噌と少しの野菜くらいしか食べられなかった。

雨が降らない日照りの時は涙を流し、寒い夏はおろおろ歩き、何ができるわけではないけれども。そうしていたら、みんなにデクノボーと呼ばれて、誉められもせず、相手にもされない。ただ、そんな彼は、東に病気の子どもがいると聞けば、家にいて親の代わりに看病してやり、西に田んぼの仕事で疲れた女性がいた時には、そこに行って、その稲の束を一緒に背負ってあげて、南に病気で死にそうな人がいたと言ったら、家に行って「怖がらなくてもいいんだよ」と励まし合って、北に喧嘩や争いがあれば、つまらないからやめろと言って仲裁に入る。誰からも感謝されずに、みんなのために支えてきたと。その斎藤は学校の先生を辞めた後、新聞配達をしていました。雨が降っても風が吹いても、雪が降る日も、夏の暑い日も、毎日欠かさず仕事をしていました。

その斎藤の娘はクリスチャンということで、いじめられて亡くなりました。娘がいなくなった時は、さすがにひっそりと家に引きこもったそうなんですが、大雪が降った日の朝、みんなのために雪かきをしてくれてたんですって。そんな斎藤は、お世話になっていた人に呼ばれて東京に行くことになりました。「誰も見送りに来てくれないだろう」と思ったら、みんなが見送りに来てくれた。その見送りに来た中に賢治もいた。まあ、そんなことを病の中、思っていたんでしょう。

ネコ:うわぁ、詩のまんま…!😮

イヌ:それで、改めて、雨にも負けず、風にも負けず。改めて詩を見てみますと、

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ影ノ小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだを持ち
欲は無く
決して瞋からず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆる事を
自分を勘定に入れずに
良く見聞きし判り
そして忘れず
野原の松の林の影の小さな萱葺きの小屋に居て
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を背負い
南に死にそうな人あれば
行って怖がらなくても良いと言い
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろと言い
日照りのときは涙を流し
寒さの夏はオロオロ歩き
皆にデクノボーと呼ばれ
誉められもせず
苦にもされず
そういう者に
私はなりたい

イヌえもん
イヌえもん

ですって!

ネコ美
ネコ美

そうでしたね、詩、全部覚えてたのにな。そういう話だったんですね~。

イヌえもん
イヌえもん

ねぇ。こういう人がいるんですよ。私も今回、『雨ニモマケズ』は何かしゃべりたいなと思って調べたら、こんなことが出てきました。

ネコ美
ネコ美

モデルがいたんですねぇ。

3.アフタートーク、あります!?

イヌえもん
イヌえもん

いつもの時間的には、パート2が終わる時間なんですが。もうひと話していいですか、これ。

ネコ美
ネコ美

はい!なんでしょう。

イヌえもん
イヌえもん

斎藤宗次郎が東京へ行くときに、「こっちおいでよ」と、東京で呼んだ人は、内村鑑三と言います。

ネコ美
ネコ美

お!聞いたことある!誰だっけ?

イヌえもん
イヌえもん

はい。まあ、昔の東京大学への進学が認められる学校、東京英語学校を修了した超エリートですよね。で、東京大学に行く前に、札幌農学校に行ったんですって。

ネコ美
ネコ美

へー

イヌ:その同級生が新渡戸稲造だったりするわけですよ。

ネコ:はぁー-!前のお札の人だ!

イヌ:はい。で、当然札幌農学校に行ったら、あの「Boys, be ambitious」のクラーク先生にならうわけですよ。

ネコ:はい。

イヌ:そこで、彼はクリスチャンになるんです。

ネコ:へえぇ。斎藤宗次郎。

イヌ:は、内村鑑三が。

ネコ:へえー、つながってますね。

イヌ:で、「彼と親交があって、東京に来て世話をしてくれないかということで、斎藤宗次郎は東京に行くと。そのあと斎藤宗次郎は91歳まで生きて、内村鑑三のそばにいた。」という話を見ました。

ネコ:ええ、そう!すごいな!宮沢賢治からこういうつながりが見えるとねぇ!

イヌ:つながってるんですよね。

ネコ:なんだろう、でも有名になる人たちって、有名になる人たちでつながってる話ってありますよね。

イヌ:まぁ、歴史上の人物だったら、それなりに、やっぱり世の中を上知る人たちなので、どこかでつながってるでしょうね。ってのもありつつも。今回のこの宮沢賢治は亡くなってから有名になってますからね。なので、ここでつながるっていうところは、わからないわけですよ。

ネコ:確かに!!

イヌ:だから内村鑑三と斎藤宗次郎はつながるっていうのはわかるとしても、斎藤宗次郎と宮沢賢治がつながるってのは、わからないじゃないですか。みんな有名な人たちがつながっているかって思いつつも、宮沢賢治が有名になったのは没後なので。当時は有名な人達同士でくっついてたわけではないと。まあ、世の中みんなつながっているってことですよね。

ネコ:本当ですね。いや、でも確かにね、「もうすでに有名で、繋がってるんならわかるけど」ってことですよね。

イヌ:そうそうそうです。

ネコ:あとから有名になったのに、つながってたっていうのはびっくり!😮

イヌ:これは何の意味があるかわからないけれども。内村鑑三は札幌農学校、宮沢賢治は岩手で農業を学んでますからね。うん、やっぱ当時の最先端は農業だったのかもしれないですね。

明治大正、最先端は農業だった!?…今回は「雨」をテーマに、宮沢賢治の詩と背景を見てきました。いかがだったでしょうか。次回の雑学は、「6月・カレンダーに注目!」。梅雨にも負けず、じとじとにも負けず、残りの6月も頑張りましょう…笑 お楽しみに🤭☔

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